生産と破壊戦争ゲーム。昔、『信長の野望』を遊んで以来、実に様々な戦争ゲームを遊んできた。『三国志』、『銀河英雄伝説』、『鬼畜王ランス』(笑)、その他、タクティカルコンバット形式のゲームも含めると、きりがない。ドラクエやウィザードリィは面白かったが、遊んだ本数で見ると、物語付きバトル・ゲームより戦争ゲームの方が多い。私にとって戦争ゲームという分野は、コンピュータゲームの中で最大の重みを持つ分野なのだ。 私が戦争ゲームを信奉する理由の一つとして、膨大な情報量を扱うことが挙げられる。人類がコンピュータを平和利用しようと考えたのは、何のためか。それは、膨大な定型情報を管理し、素早く計算する力を得るために在る。決められた繰り返しの処理こそコンピュータが最も得意とするところであり、この力を持つ事が、最大の存在意義でも在る。膨大な情報を扱い、同じ処理がひたすら繰り返される戦争ゲームのようなゲームこそ、コンピュータが力を発揮出来る最大の分野なのだ。 暴力をゲーム化したことに対する、批判の声も強い。いつしか某戦争の様子がテレビで映し出されて話題になった頃、同時にコンピュータゲーム『大戦略』の売上が伸び、世論はこれを叩いた。また、『提督の決断』では、あるCGで従軍慰安婦を思わせるような女性を描いていたことに対し、同じく批判された。 このページではテーマが異なるので敢えて多くは語らないが、戦争の悲惨さを持ち出さなければ平和を訴える事が出来ないような現在の日本の教育意識では、戦争ゲームや暴力ゲームを無くしたところで、何の効果も無いだろう。まず過去の例を持ち出して感情面に訴えかけるのではなく、人としてまずどうあるべきか、親の心で子供を教育すべきだと思う。論理的に考えたって始まらないし、映像やコンピュータによって紡ぎ出される仮想世界を排除したところで、現実は変わらないと思う。根本的な問題を付き止めるのが先だ。 大昔の人は、人殺しが悪い事だと、どうやって子に伝えていたのだろう。それをまず考えてみてはどうか。 あのマイクロソフトが、オンライン接続可能な1本の戦争ゲームを発売した。リアルタイム・ストラテジ・ゲームとうたったこのゲームは、戦争の基本を忠実に踏襲したゲームなのだ。すなわち”生産”、”情報”、”破壊”、”技術”が絶妙なバランスで揃っている。(ただし、”補給”の概念は無い。)
戻る
ページ作成 熊恭太郎
|